よさこい東海道の物語

沼津ワールドダンスフェスタ

沼津市でのよさこい踊りに対する取り組みは、平成9年に沼津市内の商店街が寄り集まって祭りを企画し、第1回は「沼津ワールドダンスフェスタ」として始まりました。

当初の企画は世界中のダンスを観客に見ていただく趣旨のものでした。

しかしダンスを見るだけではつまらない、街中の人たちが一緒になって 踊れなくては意味がない

と考え、運営メンバーがそれぞれに全国の祭りをリサーチしました。

そして寄せられた情報の中にYOSAKOIソーランまつりがあり、その資料を集める中で発祥は高知県である事を知ります。

時期はちょうど夏、よさこい祭り開催の直前でした。

よさこい祭りに飛ぶ

その時、運営委員長の原田は計画していた家族旅行を取り止め、単身高知に乗り込みます。 そして目の前で繰り広げられる躍動感あふれる踊り、強烈なリズムと地響きを立てる迫力の音楽、色とりどりの衣装で沸き立つ街並みに、ただただ驚嘆し奮い上がってくる感動は全身に鳥肌を立せたと言います。

「沼津でもよさこいをやりたい」

気持ちは、はっきりと決まりました。しかし、その想いとは裏腹に事前に取り寄せた資料に掲載されていた祭り関係者のもとを訪ねてみても、忙しいさなかで取りあってもらえず、行く宛もないまま高知の街をさまよっていました。

今の「よさこい東海道(よさこい沼津まつり)」は、その時の偶然の重なりにより大きな結果が得られたと思われます。

高知の街をさまよう原田は、暑さにのどが渇きジュースを買います。その時の売り子が、初期のよさこい沼津まつりで、例年演舞を見せる事になる「東京土佐寮」の世話役の弟でした。

祭りが終わった夜、行く宛のない原田は世話役の家を訪ねます。打ち上げの真っ最中でした。おおぜいの学生やOBが酒を飲み、たわいもなく騒いでいました。そして、しばらくして交わされ始めた短い挨拶。「またな…」「おお、元気でな」一人また一人といなくなっていくけれど、みんないい顔をしていたそうです。

夏の4日間だけ懐かしい顔を揃えて一緒に踊り、祭りの終わりと共にまたそれぞれの日常に戻っていく。

原田は、その時に祭りの原点を感じとったと言います。

翌日、沼津へ帰る日の事、祭り期間中に訪ねたが忙しいさなかで取りあってももらえなかった祭り関係者に、何気なく立ち寄った喫茶店で偶然に出会います。

思いの丈を吐き出すと互いに話が弾むようになります。後に「よさこい沼津まつり」の司会進行でお馴染みになる高知の名物男、岩目一郎氏との出会いでした。岩目氏にはその後、よさこい沼津まつりの発足に多大な尽力をいただきます。

沼津で「よさこい祭り」を

沼津に戻ってからの原田は、会う人ごとに「よさこい」の説明を繰り返していました。

11月の開催日まであと2ヶ月。沼津ではよさこいという言葉すら知らない人ばかりです。「鳴子」がどんなものなのかを説明し、チームづくりに奔走する毎日が続きます。原田の弛まぬ努力、それを支える自らの熱意は、人から人へ伝播して次第に人数を増やしながら祭りの姿を作っていきました。

祭りの当日、街は熱気に包まれていました。

演舞場の一つとなった仲見世商店街には観客がひしめき人並みの間をすり抜ける事も出来なくなっていました。踊りを見ようにも幾重にも重なる観客に、後から来た者はベンチや木箱によじ登って覗き込むようにしてやっと見える状態です。

他の演舞場も同じような状態で街中を拍手と歓声が包んでいました。

祭りの終わりに狩野川階段堤で行われたフィナーレでは、原田は、自分がどうあいさつしたのかよく覚えていないと言います。その時、原田も仲間達も静かに泣いていました。

よさこいを通じて、人の集まる街に

よさこい沼津まつりも毎年回を重ね、昨年の11月には第5回が開催されました。

毎年恒例となった狩野川河川敷のフィナーレも昨年の第5回では人に埋め尽くされ身動きがとれないほどでした。沼津市内や近隣の市町からチームが集まって始まった第1回から比較すると、北海道や大阪、中国地方からも参加者のあった昨年の第5回では大きく発展したと言えると思います。

また県外の参加者には沼津市民の心の優しさ温かさが大変に喜ばれ次回も必ず参加したいと言います。昨年の第5回に参加した宮城県と北海道の大学生は、また今年も参加するために旅費を毎月積み立てていると聞いています。人と人の心のふれあいを地肌で感じとる事ができる祭り、それが「よさこい」だと思います。

原田が口癖のようにたびたび私たちに聞かせる言葉です。

「沼津は東京に近いし、いつでも帰れるからってみんな夏祭りの日も帰らねえんだけど。人が帰りたくなる街、集まる街にしたいんだよ。よさこいやりながらさ。」

寄稿 平成14年3月 駿河屋市辺衛